曹洞宗 大長寺
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大長寺縁起
大長寺は、曹洞宗に属し、金剛山と号する。天文10(1541)年、当時の吉田島村に唯一ケ寺の寺として、草創されたが、酒匂川の度重なる水害のため、寺の基盤も失われかけていた時代もあったと言われる。寛永元年(1624)年、千葉県国府台(現在の市川市内)にある総寧寺の18世であり、当時の曹洞宗門の総録司の大職にあった高僧の勝国良尊禅師が、大雄山最乗寺(道了尊)の輪番住職に上山の砌り、大長寺の窮状を救わんとして浄財を与え、自ら開山となって、弟子の通山良達大和尚に復興を托されてより、今日まで法灯を護持す。
御開山は、徳川家康、秀忠、家光の三代にわたる将軍の帰依を受け、特に神君家康公が駿府城に閑棲されるにあたり、師祖父の命を受け、伴侍して、久能山の麓に一宇を建立した。これが当寺と同開山を戴く、石蔵院である。元和2(1616)年、神君の遺命により 霊柩を久能山奉送の途時、禅師の寺に休憩、その折、引導回向なされたという。
この勝国良尊禅師が後に大長寺の本寺総寧寺に晋住し、その後、当寺の開山となられたのである。当山の開基は名主であり、村人のために創建され、村人が護持してきた、村人のための寺である。大長寺と地域との結びつきは極めて深く、村の行政を司る吉田島村役場が明治22年4月から大正15年3月まで37年間の長期に亘り、大長寺に設置されていたことはその象徴である。村役場のみではなく、準教員養成所、女子技藝学校が置かれたり、現在の神奈川県立吉田島農林高等学校の創設発祥が当寺であるなど、地域社会の中で果たしてきた役割は大変重要なものであった。
現在は、2百余年を経た本堂、庫裡を初め、20余棟の伽藍を数え、檀信徒の厚い護持の念に支えられている。